昭和43年10月31日 朝の御理解
御理解 第76節
「人間は人を助ける事が出来るのは有難い事ではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助ける事が出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。」
是は人間は病気災難の時と仰る、必ずしも病気災難の時だけではない。何時もお助けを頂いておる訳ですが、難儀な時と頂いたら良いでしょうかねぇ。自分が難儀を感ずる時、金光様と、神様を心に念じ、神様にすがる、そういう時に助けて頂のであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよと仰るのですから、そういう私共の難儀を感ずる時、縋れば助けて頂ける為にもね、私共はここの御教えをもっともっと深く分からねばいけんと思うのです。
自分の困った時に助けて貰うのであるから、とここで仰って居られますから、矢張り神様のここの願いというのは、人を助ける事が出来るというのが有難いと心得て、とここでいうて居られます。そこんところを有難いと心得て信心せよ、とこう仰っておられるそこで思うのですけれども、人間は人を助ける事が出来るという事。所が実は助けた積りでおるけれども、助けていない事が沢山有るのですよ。
ですから矢張り本当に助けるという事はやはり容易いという事じゃない。そこで私は人を助ける稽古が必要という事になります。人を助ける稽古が必要です。勿論助けるというのですから自分に力がなければ、言わば余力がなからなければ人を助ける事が出来ません。人が重そうな荷物を担いで行きよんなさるそれを助けてあげる、自分も重い荷物で自分で自分の事がいっぱいであって人の荷物なんか持ってやれませんよねえ。
だから自分の事は自分で楽に持って、初めて私は人の重いのを半分持ちましょうというて助ける事が出来るのですから、先ずここで分かる事は助ける為には矢張り力がいるという事である。牛やら馬やらは自分の子供が溺れておっても助ける事が出来ない、そんなら人間だって同じですよね。自分の子供が目の前でおぼれておっても自分自身が泳ぎが出来なかったら助ける事が出来ないでしょうが。親子共々に溺れんならん。為には先ず自分が泳ぎを覚えておらなければならん様なものです。
ですから、結局人を助ける事の出来る、ひとつの可能性とでも申しましょうか、人間は持っている訳です。可能性である、自分でその力を頂けば助ける事が出来る。是は結局、私共の場合凡夫ですから、おかげを頂くという事につながるのですから、相済まん事ですけれども、最後に御座居ます様に、人間は病気災難の時、神に助けて貰うのであるからと、こう仰る。
言わば自分も難儀な時助けて貰うのであるから、しかも神様に助けて頂くのでありますから、助けて貰わんならんから、自分も助ける力を頂かにゃいけないという事。ここはおかげに継がるのです。けれども、是は凡人ですから、仕方がありません。自分はもうおかげなんか頼まん、願わん、もう神様にお願いなんかした事ない、という人達も有りますけれどもです。
矢張り縋らなければ、居られん、願わなければ居られん時がある、実をいうたら私共、日々それなんだ。縋らなければ居られんのである、縋って助けて頂かねば居られんのである。ですから、助けて頂く為にはです、私共はこの御教えから頂きますと、人の難儀を助けるのが有難いと心得れる稽古、そう心得さして貰うてです、そんなら本気で人の助かる事の為に、奉仕しようという事にもなるのです。人の助かる事の為の奉仕。世の中には、様々な事があります。
例えば、哀れな声を張り上げて、「右や左の旦那様、哀れな乞食で御座居ます、どうぞお恵み下さい。」と云うて助けを求めておる。言わば言葉はそうでなくても、そういう事に直面するのは、沢山あると思うのです。それは可哀想なという同情で助けてやる、それが果たして本当の助かりになるだろうか。現在では、大変形が良くなりましたですね、いわゆる格好よくなりましたよ。右や左のとはいわんけれども、まあ云うなら、大きい勢力が云わせる、「赤い羽根募金」なんかそれですよ。
「皆さん赤い羽根をお願いします」と云う訳です。なる程これが難儀困迫をしている人の上に、人を助ける事の為に使われる。果たしてそれがその人を助ける事になっておるであろうか本当に純信心を持って云うとですねえ、あれは本当の助かりにはならんのですよ。だから是は別の問題ですからある場合に追求してみるのもいいと思うのです。例えば乞食に物を与えると云う事がその乞食に何時までも乞食根性を植え付けると云う事であったら助ける事にはならんその人を愈々乞食にしてしまう事になるのですよ。
ですから私共がここで助ける事が出来るという事、又自分に力があるという、その余力をです本当の人の助かる事の為に、使えれる稽古が必要なんです。本当に人を助ける稽古が必要なんです。それには矢張り、私共の心の中に親切、いわゆる神心が段々でけてこなければなりません。信心させて頂いとりますと、その親切が本当の親切心、神心が段々頂けてくる様になるのです。
そこで私共の神性、いわゆる神の性、人間は神の氏子じゃからと仰る。その人間は神の氏子であるのにも係らず、私共の生まれてこの方、我情我欲の為に、その神性と云うものが、性が変わってしまっておる様に、神様心どころか、それこそ人面獣心と云う様なです、姿形は人間の姿形をしておるけれども、畜生にも劣る心になり果てていくと云う人も、随分とあるのですよね。
ですから、私共の神様の性、神様の氏子としての値打ちを、いよいよ作って、いよいよ磨いていくと云うのが信心なのですから、本来は内容にあるのです。神の性というものがある。その神の性と云うのが段々磨き出されて来て、初めて神心が生まれて来るのであり、初めて間違いのない親切が生まれるのである。そこから本当の助けるという事の働きというものが出来るのである。
私は皆さんに、こうしてお話を聞いて頂きます。毎朝金光教教典を元にして、お話を聞いて頂くのです。けれども是は云わば私の云う事、私のなす事私の見る事聞く事、是を例えば大坪総一郎がなしておるのではない、聞いておるのではない見ておるのではない。ある場合には、それは金光大神が聞いておって下さるのであり、ある場合には神様が云いよんなさるのでありいわゆる自分の中にある神性、所謂神の性がそれをなしているのであり、大坪総一郎凡夫じゃあない。そういうものを私は日々実感するのです。
例えばこの教典を、私は皆さんに聞いてもらう前に、先ずどういう事をするかと云うと、ちょっと見よって下さい。こう言う風にやるのですよ。是を先ず頂くのです。自分の心の中の神性と云うのを確かめて見るのです。そしてからですね、是をこういう風にして持つのです。そして是をこう、ずぅっと自分の肉眼を以て見せて貰うのです。そして神様、今日皆さんに聞いて貰う。
どこを聞かせて貰うたらいいのでしょうかと云う。自分の目でそれを確かめるのです。そうすると私の目の止まる所、ここをこう一遍通り見るのです。そうするとそうして行く内に、上の方もここ、下の方もここ、と云う焦点がでてくるのです。そこで是は神様がここで目をとめて下さった、と思うのです。私の心の中の神様が、それでも、私の人間凡夫がどの様に出ておるか分からぬので、もうひとつそれを確かめるのです。
そしてその所を頂きます。今度は、なす事です。こう言う所を自分の手で聞くのですから、中々こうやっただけでは、自分の目に止まった所だけでは無い訳です。ですから、其処ん所を大体こうやって開く。是はなす事です。なす事を以て確かめる訳です。そしてこう開く訳なのです。そうしてもう一辺心の神に伺うて見るのです、ここの中の前葉、後葉言わば、右か左かを、まず伺うのです。
そして右なら右左なら左と頂いたら、又それから、いわゆる肉眼を以てその中から、ある場合には句を、ある場合にはその一節を確かめるのです。そして日々感ずる事。はあ私が見よるのじゃないな、聞きよるのじゃないな、言わば私がなしよるのじゃないな、という事を何時の場合でも感じます。例えば昨日の縁と云う御理解にしても、私が一生懸命考えて頂きよるのじゃあないです。
そしてそんなら皆さんに、こうして愈々聞いて頂く事、云わして頂く事、それをです自分の云うた事に、責任を持てと云う事があります。そういう時に私は何時も思う事はです、神様が責任はとって下さるとこう思うのです。自分でちょっと云い過ぎたと云う事がないではない。けれどもそれは神様が云い過ぎなさったんだとこう思う。言い過ぎなさったと云う事はないでしょうけれども、それでおかげになるとこう思うのです。
ですから今日私が申します様に人を助ける事が出来る事の為の稽古、助ける稽古をなさらないかんです。そこに例えば困った人が目に飛び込ん出来たらです、それを矢張り助けてやろうとする親切そしてその後味が有難かったと、是だけの事をしたけれども却って気分が悪かったとか。例えばバスに乗って席を譲るでもそうですよ。どうぞと云うてした所が、けんたいで座らっしゃった。
この人に譲らにゃ良かったと云うなら、もう助けた事にならないでしょうが、どうも済みませんと相手が云えば、本当に席を譲って良かったと自分で思うのですけれども、そうとばかりはいけない事があるでしょうが。だから本当は席をひとつ譲る事の上にしてもです。いわゆる今日私が申します見る事でも、聞く事でもなす事でも自分じゃない神様が見御座るんだ、聞き御座るんだ車に乗っとっても。
どうしても席を譲ろうごとなか事がある。ある終戦後の混乱しておる時代、高橋正雄生が福岡教会にみえられた事がある。その道中での事である。先生と随行の人が乗っておられた。所が前に立っておる人が、どんなに考えても困った人の様である。先生は何時も席を立って人に譲られるそうです。所がその時に限って、立たれない。何か読んでおられたそうですが、眼鏡越しにその人をジロッと見られる。
何回となく見られる。けれども席を譲ろうとなさらない。だから随行の人が、何時ものなさり方と違うので、不審に思ってから、お尋ねした。そん時の言葉は、ちょっと忘れましたけれども、それは本当の助かる事にならないからと仰った。何回も観察しておられる訳ですねえ、本当にこの席を譲ってもいいものかどうか、席をひとつ譲るでも、それだけ心を使うておられるという事です。
譲る事が、却っていけない事があるかも知れない。そういう風に、人を助ける事の上にあっても、厳密に云えば、矢張り稽古なんです。人間は人を助ける事が出来るのは有難い。だから有難いという事の心に頂ける程、信心の稽古を、助ける稽古をなされなければなりません。為にはです。自分が助けた人の上には、絶対の助かりが頂けるんだと、その為に自分の心の中の神性という物が、段々本当な物に成らなければならない。
ですから、信心は、常日頃、改まる事、磨かせて頂く事に努めさして頂いて、自分の心の中から生まれて来る神心がでて来る、それを楽しみに信心させて貰うて、しかもその人を以て人を助ける、その稽古をさして貰う。先日ある方に苦言を呈した。云うならその人に対して少し忠告をさして貰った。云わんでもよい、神様に願ってやればよい、そういう場合もあります。
けれども是は、本当の事を分からして頂く為に、やはり云わねばならない時もある。その時私は、云わして頂こうかどうしようかと神様にお願いさせて頂いたら、頂きます事がね、『たつ田川無理に渡ればもみじが散るし渡らにゃ聞かれぬ鹿の声』是は都々逸の文句です。これを頂くのです。 はあ私が云うと、この人は腹を立てるなと直感したのです。必ずもみじが散ると云う事を思うたんです。
けれども散る事よりも、もういっちょむこうの鹿の声を聞かせる事が、本当に神様の心を分からせる事の方が大事だと思ったから、あえて私はその苦言を呈しました。なる程頂いた通りにあんまり気分のいいもんじゃありませんでした。けれどもその人がまあひとつその向こうにです。神の心がある、いわゆるもうひとつ向こうに、そこは紅葉を散らせなければ、鹿の声を聞く事は出来ないのだ、その人は。
そう言う様な時には、云わにゃよかったと言う様なものは感じません。神様が責任は取って下さるんだから、私の口を通して、神様が云わして下さるのであるから、と私は確信するのです。御理解第76節をこう言う風に頂いてまいりますと、非常にこの御教えが深いものになってまいります。人を助ける稽古なんて今日初めて頂いた。人を助けるには矢張り稽古がいるのです。
ところが私ども凡夫はです、矢張り何時もおかげを求めておる。またおかげを頂かなならん。いわゆる、病気災難の時、神に助けて貰うのであるからと仰る、難儀な時困った時、助けて貰うのであるからと、ここに云うて居られる様に、助けて貰うのであるから、おまえも助けなければ、いけないぞとこう仰る。それはおかげに継がるのですけれども、助けなければいけません。
というて助けたと思うておっても、助けてない場合があるのですから、助ける稽古が必要なのである。それはバスの席ひとつ譲らせて頂くにおいても、矢張り心を使わなければいけません。そして、それを確かめて助ける事。そこから人の難儀を助けるのが有難い、と段々分かって来る。そこからあいよかけよの付き合いと云う。そこの精神を極めての赤い羽根であれば、これは有難い事になるのでしょうねえ。
例え、それは十円であっても、三十円であっても、それが本当に人が助かる事の為にです、使われる事にならなければ、唯、自分達が赤い羽根をどんどん買えば、難儀な人が助かるんだと云う様な簡単な考え方で、助からないかもしれない。それが却って、助からない反対の事に行じされる様になったら大変。哀れな声を張り上げて助けを求めておるから、助けた積りじゃった。
所が相手は、却ってベロどん出しよると云う様な場合があるかも知れん。「あれが馬鹿じゃけん騙された」と云うのがあるかも知れません。そういう助け方ではいけない。本当に助かる同時に自分も有難い、と云う助け方人を助ける事が出来るのは有難い。人間はその気になれば、人を助ける事の出来れるものを持っておるのです。その為には、先ず自分自身が本当に助からなければいけません。
自分自身が力を頂かねば、人を助ける事は出来ません。自分が溺れておって、人を助ける事は出来ない様なものです。先ず自分が泳ぎなら泳ぎを自分の身に付けなければ、人の溺れているのを助ける事は出来ません。先ず自分が助からねばいけません。そんなら助かっておるからといきなりに人を助ける事は出来ません。矢張り助ける稽古を一生懸命さして頂て神様が喜んで下さる。
又は自分も喜べれるという其処ん所を教祖様はね、此方は人が助かる事さえ出来れば結構であると仰っておられます。私共も人が助かる事さえ出来ればと思え、言われる様な信心、又はその様な助かりを頂かねばなりません。それは又、私共が難儀な時神に助けて貰うのであるから、と仰る様に、そういう私共が働きに成って来る時にです。私共の難儀は神様が引き受けて下さる。
そういう時に、神様は、必ず私共を難儀から助けて下さる、と云う様なものが、その中に感じられますですねえ。人を助けてやれその代り、お前が困った時助けてやるからと云う様なものをここから感じますですねえ。そういう意味合いにおいても、人を助ける稽古をさして貰わなならんと思うのです。
どうぞ。